福島家庭裁判所会津若松支部 昭和52年(家)1175号 審判 1978年3月28日
申立人 大内洋
主文
被相続人の相続財産である福島県会津若松市○○町○○○○○○○○○××番畑一一九平方メートルを申立人に分与する。
理由
一 申立人並びに鈴木久夫の各審問の結果、その他本件記録並びに当裁判所昭和五一年(家)第八九四号相続財産管理人選任事件、昭和五二年(家)第三七六号相続人捜索の公告事件の各記録を総合すると次の事実が認められる。
(1) 被相続人黒田勇吉は昭和二二年二月八日死亡したが、同人に相続人のあることが明らかでなかつたため、昭和五一年九月二九日申立人が相続財産管理人に選任され(申立人は本件申立をした際上記管理人を辞任したので、昭和五三年一月二七日鈴木久夫を管理人に選任した。)、昭和五二年一月一一日相続債権者及び受遺者に対する請求申出の公告が、同年四月四日相続人捜索の公告がそれぞれなされたが、相続債権者、受遺者、相続人の各申出がなく、相続人捜索の公告に定めた催告期間満了日である昭和五二年一〇月一〇日後の同年一二月一四日本件申立がなされた。
(2) ところで、申立人の祖母(申立人の母大内イツの母)大内フサ慶応三年三月二〇日生)は、明治三四年に夫大内久次郎と死別したが、隣家に居住していた被相続人(明治六年一〇月二四日生)と懇ろになり、同人が黒田家の長男であつたことなどからフサと婚姻届はなされなかつたものの、大正一一年頃大内フサ方に入居し、フサと被相続人とはそれ以来事実上の夫婦関係を結んでいた。
(3) 一方申立人は、大正八年一〇月九日生れであるが、出生以来父大内清造、母大内イツ及び上記フサと同居し、叙上の通り被相続人がイツ方に入居した後は、同人とも同居し、被相続人とは事実上祖父と孫の関係を続けていた。フサは、大正一〇年に死亡したが、被相続人はその後も申立人方に留まり、申立人及びその両親らと同居しつつ上記の関係を継続していた。
(4) 申立人は、昭和一六年七月に軍隊に入り、昭和二四年七月に復員して上記住所に帰つたが、当時被相続人は既に死亡していた。
(5) しかし、申立人は清造とイツの長男であつたことから、両親の死亡(清造は昭和二四年に、イツは昭和二七年に死亡)後はその遺産を承継すると共に、被相続人の後記遺産のうち主文掲記の畑については、これを自ら耕作して管理していた。
また、上記の土地に対する公租公課は申立人が納付しており、さらにまた申立人は被相続人の墓碑を建立するなどして同人に対する祭祀を行つてきた。
(6) 被相続人には主文掲記の畑の外に、福島県会津若松市○○町○○○○○○○○×××番田七七二平方メートル、同所×××番畑一七一平方メートル、同所×××番山林一二〇四平方メートルの三筆の土地に対するいずれも七五分の一の共有持分権がある。
(7) 申立人は、被相続人の上記遺産中、主文掲記の畑については特別縁故者として自己に分与されることを強く希望しており、又上記山林の共有持分権についても分与を望んでいるが、それ以外の田及び畑の持分権は、それらの土地が工業団地として福島県に売却されることになつている事情もあつて、分与を望んでいない。なお主文掲記の畑については、申立人以外に分与を請求する者はない。
二 上記(1)ないし(7)に認定の事実を総合すると、申立人は、民法九五八条の三にいわゆる被相続人と特別の縁故があつたものと解すべきであり、上記相続財産中主文掲記の土地は、申立人にこれを分与するのが相当である。
三 次に、上記田、畑及び山林の各共有持分権について考える。民法二五五条によれば、共有者の一人が相続人なくして死亡したときはその持分は、何らの手続又は意思表示等を要することなく当然かつ直ちに他の共有者に帰属するものとされるから、相続人がないことが法律手続上確定したとき、即ち民法九五八条の相続人捜索の公告に定めた相続人申出の催告期間が経過したときには、相続人の死亡時又は遅くとも上記催告期間の経過した時において他の共有者に当然に帰属するものと解するほかはない。しかるに民法九五八条の三の特別縁故者への相続財産分与の手続は、相続人が存在しないことが確定した後に行われるものであるから、共有持分権はその対象となりえない。もつとも、特別縁故者を保護すべきであるとの立場から、共有持分権も民法九五八条の三の分与の対象になるとの見解がある。しかし、真に保護に値する特別縁故者は、多くの場合相続債権として相続財産の清算手続において、共有持分に対しても上記分与に先立つて権利を主張することができるのであり、そのような権利を有しない特別縁故者を他の共有者に先立つて保護すべきかどうかは、立法上の解決に委ねられるべき問題である。
してみれば、被相続人の遺産中上記共有持分権は本件の分与の対象とはなりえない。
よつて主文の通り審判する。
(家事審判官 清野寛甫)